2014年5月19日月曜日

「桜桃の味」



イラン映画上映会の件でメールが来ていた。


2.「桜桃の味」(アッバス・キアロスタミ監督、1997年)(1時間35分)
  14:30-16:05

1997年のカンヌ映画祭でグランプリに輝いたイラン映画。人生に絶望した男が、自分の自殺を助けてくれる人を探しもとめつつ、人生の本当の意味を知るまでの姿を描くヒューマン・ドラマ。バディは、自殺の協力者を求め、一台の車に乗ってさまよい続けていた。道中彼は、あるトルコ人の老人ゲバリに出会う。老人と話すうちに、絶望していたバディの心のなかに光がさし、彼はしだいに希望を見出してゆく。



 「桜桃」とは何か?

検索すると、青空文庫で太宰治の「桜桃」が真っ先に出て来た。

読み方は他の記事から「さくらんぼ」であることがわかった。

桜桃

太宰治




われ、山にむかいて、目をぐ。
――詩篇、第百二十一。

 子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。少くとも、私の家庭においては、そうである。まさか、自分が老人になってから、子供に助けられ、世話になろうなどという図々しいむしのよい下心は、まったく持ち合わせてはいないけれども、この親は、その家庭において、常に子供たちのご機嫌きげんばかり伺っている。子供、といっても、私のところの子供たちは、皆まだひどく幼い。長女は七歳、長男は四歳、次女は一歳である。それでも、既にそれぞれ、両親を圧倒し掛けている。父と母は、さながら子供たちの下男下女の趣きを呈しているのである。

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「われ、山にむかいて、目を挙(あ)ぐ。」→検索

こんな記事を見つけた。

考えるヒントのお蔵  生と性と聖の棚  第4番 涙の谷の文学者


目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る  天地を作られた主のもとから。
どうか、主があなたを助けて 足がよろめかないようにし まどろむことなく見守ってくださるように。


そして、『桜桃』の中で、主人公に一番汗をかくのはどこか?内股か?と問われた妻が答える台詞が

「この、お乳とお乳のあいだに、……涙の谷、……」です。

この「涙の谷」もまた、旧約聖書の詩篇第84に出てきます。ただ、「涙の谷」と表現されているのは文語訳聖書で、口語訳聖書では「嘆きの谷」(あるいはバカの谷)と表現されています。今売られている聖書で、いくら「涙の谷」を探しても出てきません。

詩篇第84の6・7節は、次のような主と共にいる喜びの賛歌です。

いかに幸いなことでしょう  あなたによって勇気を出し 心に広い道を見ている人は。
嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。
雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。

『小型版 新共同訳  聖書辞典』(キリスト新聞社 2400円)によれば、この嘆きの谷とは「バルサムの木の谷」のことであり、バルサムの生える荒れ果てたエルサレムの谷を指すものだそうです。「バルサム Balsam」はヘブル語では「バカ Baca」と呼ばれ、幹から薬用になる乳のような樹脂を出す潅木です。

涙-嘆き-乳。死を前にした太宰(ダザイを変換すると堕罪になるのも何だか……)が、作中の妻に「お乳のあいだに涙の谷」と言わせたのは、どんな思いからでしょう?


自ら命を絶った太宰と芥川は、パビナールだけでなく、旧約聖書の「涙の谷」でも結ばれていました。有島武郎や北村透谷も含め、キリスト教や聖書に深い理解を持ちながら自殺した文学者達。聖書の言葉は救いをもたらす以上に、人生の苦悩を掘り下げるものだったのでしょうか?

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